宮古島の史跡・石碑

2011年9月25日 (日)

ドイツ皇帝博愛記念碑。

 昨日の宮古毎日新聞のコラムに、ドイツ皇帝の博愛記念碑について書いてあったので、思い出しました。

 ドイツ村に立っているのも古い記念碑ですが、こっちの方が本家みたいですね。

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 どこにあるかというと、市役所から平良港に降りていく坂道の真ん中あたり左側です。綺麗な看板が立っていますが、碑の敷地は狭く草も生えています。こんな感じです。

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 さて、どういう経緯かと言いますと、

 1873(明治6)年7月に、ドイツ商船のロベルトソン号が台風にあって、上野の宮国沖合いで、座礁難破した。宮国の人たちはその乗組員8名を救助し手厚く保護した。そして役人が船を与えて帰国させた。時のドイツ皇帝ウィルヘルム1世はこの話にとても感激し、1876(明治9)年3月、軍艦チクローブ号を宮古島に派遣して、この記念碑を建立した。

 、ということです。

 碑を正面から見るとこうです。

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 裏面はこうです。

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 この話があって、上野のドイツ文化村に繋がっているんだと思います。今度はそっちの方の碑も見に行ってきます。

 では、また~(゜o゜)。

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2011年9月 7日 (水)

喜佐真御嶽

 御嶽は、いかにも昔からあって史跡の代表のように思われるかもしれませんが、数もたくさんあるし、ちょっとした村落のえらいさんの墓にそれっぽいお話をつけたようなところだと個人的には思います。

 御嶽の第1回はこれまた近所にある「喜佐真御嶽」です。今日ウォーキングがてら行ってきました。こんなです。

 012 綺麗に旧下地町の石碑、説明板、新しい宮古島市の説明板と並んでいます。

 さて、その説明板によると、1707年の段階で歴史書に出ているそうです。喜佐真城跡があって、祭神は真種子若按司ということなので、やはりその頃の実力者の墓なのではないでしょうかね?右の説明板には男子の出入りは禁じられていると書いてあるので、奥までは入っていません。

 では、また~(゜o゜)。

 

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2011年9月 4日 (日)

池田矼

 個人的に無駄であろうと思う石碑とか、案内板とかが宮古にはたくさんあるという記事を書きました。そういうのを笑おうと思います。これからバイクの運転練習を兼ねて色々調べてみます。

 それと一緒にするのはどうかと思いますが、めんどくさいんで同じカテゴリーで宮古島の史跡も調べてみようと思ってます。

 試し書きの第1回目は「史跡」です。家の前の「池田矼」です。今の国道にかかっているのは「崎田橋」です。橋なので、もちろん川の上にかかっているのですが、本当は宮古には川と呼べる川はありません。ちょっとした小川で、それが崎田川です。地下水が湧き出るのでしょう、数年見ていますが、水が枯れる事はありません。

 その新しい橋の左に「池田矼」があります。こんな感じです。「矼」とは何ぞや?「石橋」のことだそうです。

 20110219 さて、その手前に、立派な石碑、説明板が旧下地町によって立てられています。その説明によれば、1500年頃に作られたそうです。1727年には「長さ20間、横3間である」とある資料に出ているそうです。当時の1間の長さがどんなもんかは分かりませんが、1間はおよそ1.8メートルなので長さは36メートルほどもあったということですね。でも、これは現状と合いませんねえ。ひとつの大きな橋ということではなくて、小さな橋が並んでいくつかあったと考えるといいのでしょうか。1819年に大修理があったということです。

008  しかも今は橋の先は沖縄精糖の敷地になっていて、道もありません。綺麗に清掃されるのも年1回くらいです。

 ここで仲宗根将二氏の「宮古風土記」の上巻166ページの記載を引用します。

 「従来日本最古といわれてきた長崎の眼鏡橋は寛永十一年(1634)年の建造となっており、中国とのかかわりの古い県内の石橋の多くはそれより古いことになります。昨年春、宮古を訪れた長崎の石橋研究家・山口祐造氏は、池田矼をみて、アッと驚いてしまいました。これこそ日本最古の石橋だというのです。」

 今となってはホンマかいなと思いますが、これくらいの文化財のようです。

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 さて、その横には一応今回のメインテーマである不要であろうという石碑。これは、もうかなりのところに立っていますが今回の池田矼の横にも立っています。よく見てないんで何語か分かりませんが、数ヶ国語で説明が書いてあります。こういうのはホントに必要なのかなあ。外国人が立ち止まってみている様子を今まで見たことがありません。

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